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横浜地方裁判所 昭和58年(わ)603号 判決

主文

被告人を懲役三年六月に処する。

未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和五三年八月ころから同棲し昭和五五年八月に婚姻した妻A子とともに、神奈川県藤沢市《番地省略》所在の借家(所有者清田義照、木造トタン葺平家建・床面積三八・六二五平方メートル、以下「本件家屋」という。)に居住していたものであるが、恵まれぬ少年時代を過ごしたので家庭を大切にしようと考え、A子に愛情を抱いてはいたが、嫉妬深いうえに些細な事でA子に対して暴力を振った。被告人の暴力に悩むA子は、離婚を考え始め、昭和五八年二月ころ、三度にわたって家出し、同年四月初めには、農薬を飲んで自殺を図ったこともあり、被告人はその都度自己の非を認めて改めると約束しながら相変らず暴力を振うので、同女は真剣に離婚を考え、同月一〇日午後一時ころ、被告人から用事を頼まれたことを機に友人方へ家出するに至った。被告人は、A子の帰宅が遅いので、また家出をしたのではないかと思い、同日午後三時ころより自動車で同女を探し回るなどし、夕方には義兄との電話で同女が家出したことを知った。それでも、被告人は、同女が荷物を本件家屋内に置いたままにしていることもあり、同女が帰ってくるのではないかと心待ちにしていたが、同女は帰らず、部屋の中を見回わすと同女との楽しい思い出が思い起されるものの、同女との関係は将来どうなるかわからないと悲観的な気持ちにとらわれ、同女との思い出がある本件家屋を燃やして自分も死のうと思うに至った。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五八年四月一〇日午後一一時半ころ、右のように本件家屋を燃やすとともに焼身自殺しようと決意し、自宅前の路上に駐車中の自己所有の自動車からガソリンを抜き取って青色ポリ容器に移し入れ、本件家屋の六畳及び四畳半の各和室の床並びに廊下などに右ガソリン約六・四リットルを撒布して右ガソリンの蒸気を発生せしめ、翌一一日午前零時五分ころ、廊下でタバコを吸うためにつけたライターの火を右蒸気に引火爆発させ、もってA子が現に住居に使用する本件家屋に火を放ち、これを全焼させたものである。

なお、被告人は、同日午前零時二〇分ころ、茅ヶ崎警察署岡田派出所において、警察官に対し本件犯行を自首したものである。

(証拠の標目)《省略》

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人は、被告人は本件家屋に火を放つ意思で部屋中にガソリンを撒いているものの、これだけでは出火しないから、右は放火の準備段階であって放火の着手があったとは言えず、その後、被告人は心を落ちつけるためライターでタバコに火をつけようとしたところ、被告人の撒いたガソリンが気化していてこれに引火したものであり、タバコに火をつける行為も放火を意図したものではないから、放火の着手があるとは言えず、結局被告人は放火行為そのものをしていないから放火予備罪を構成するにすぎない旨主張するので、この点について判断する。

なるほど関係各証拠によれば、被告人は本件家屋を焼燬するとともに焼身自殺しようと考え、本件家屋内にガソリンを撒布したこと、被告人は撒布後すぐには火を放とうとせず、妻A子から帰宅を知らせる電話があるかも知れないと思い、しばらく廊下の電話台の近くに立っていたこと、しかし電話がかかってこないので、被告人はガソリンに火をつけて家を燃やしその炎に包まれて死のうと覚悟を決め、死ぬ前に最後のタバコを吸おうと思い、口にくわえたタバコにライターで点火したこと、その際右ライターの火が撒布したガソリンの蒸気に引火し、大音響を立てて爆発し、本件火災に至ったものであること、右爆風を強く感じた被告人は、ふりむくと玄関の戸が吹き飛ばされてなくなっていたので、急に恐ろしくなって本件家屋から飛び出して車で本件現場から離れ、約一五分後には派出所に自首していることが認められ、弁護人が主張するように、被告人がライターを点火した直接の動機は、本件家屋を焼燬するためではないことは認められる。

しかしながら、関係各証拠によれば、本件家屋は木造平家建であり、内部も特に不燃性の材料が用いられているとは見受けられず、和室にはカーペットが敷かれていたこと、本件犯行当時、本件家屋は雨戸や窓が全部閉められ密閉された状態にあったこと、被告人によって撒布されたガソリンの量は、約六・四リットルに達し、しかも六畳及び四畳半の各和室、廊下、台所、便所など本件家屋の床面の大部分に満遍無く撒布されたこと、右撒布の結果、ガソリンの臭気が室内に充満し、被告人は鼻が痛くなり、目もまばたきしなければ開けていられないほどであったことが認められるのであり、ガソリンの強い引火性を考慮すると、そこに何らかの火気が発すれば本件家屋に撒布されたガソリンに引火し、火災が起こることは必定の状況にあったのであるから、被告人はガソリンを撒布することによって放火について企図したところの大半を終えたものといってよく、この段階において法益の侵害即ち本件家屋の焼燬を惹起する切迫した危険が生じるに至ったものと認められるから、右行為により放火罪の実行の着手があったものと解するのが相当である。

よって、右の点に関する弁護人の主張は採用できない。

(なお、前記のとおり本件焼燬の結果は被告人自身がタバコを吸おうとして点火したライターの火に引火して生じたものではあるが、前記の状況の下でライターを点火すれば引火するであろうことは一般人に容易に理解されるところであって予想し得ないような事柄ではなく、被告人はライターを点火する時に本件家屋を焼燬する意思を翻したわけでもないから、右のような経緯で引火したことにより本件の結果が生じたからといって因果関係が否定されるものではなく、被告人は放火既遂罪の刑責を免れない。)

二  弁護人は、本件建物はA子が家出したことにより被告人のみが住む家となったのであり、したがって現在建造物ではなく非現住建造物というべきである旨主張するので、この点について判断する。

関係各証拠によれば、なるほどA子は被告人との離婚を相当に固く決意して家出したことは認められるけれども、同女はいわば着のみ着のままの状態で家を出ているのであって、本件家屋に衣類等日常の生活品を残したままであること、同女は昭和五八年二月にも三度家出しているものの、いずれも短期間で本件家屋に戻っていること、本件犯行時は同女が家を出てから半日も経過しておらず、同女と被告人が別居し離婚することが確定的になっていたものではなく、同女の離婚の意思は相当固かったとはいえ、なおその心理には微妙なものがあり、被告人との生活をもう一度やり直す気持ちが全くなかったわけではなく、本件家屋は自分の住居であるとの意思を有していたことが認められるのであり、これらの事実関係によれば、本件家屋は本件犯行当時においては依然A子が現に住居に使用する建物であったと認めるのが相当である。また、被告人においても、A子の意思内容については正確には知り得なかったとはいえ、本件家屋にガソリンを撒布した後でもA子からの電話連絡を待ち、同女が帰宅するのを期待していたのであるから、本件犯行当時本件家屋がA子にとっても住居であることの認識に欠けるところはなかったというべきである。

よって、右の点に関する弁護人の主張は採用できない。

三  弁護人は、被告人は、本件犯行当時軽いせん盲状態で判断能力を著しく欠いており心神耗弱の状態にあった旨主張するので、この点について判断する。

被告人の当公判廷及び捜査段階における供述によれば、被告人は本件犯行前後の行動について清明かつ完全に記憶しており、幻視や幻聴などの異常症状はもとより意識障害も全くみられない。また、その供述によれば、被告人が本件家屋に放火して自殺しようとした理由は、妻と一緒に生活していた家の中を見回していたら最初は楽しいことが思い出されたが、そのうちに逆にその思い出が憎らしくなってきてすべて裏切られてしまったと思う様になり火をつけて一緒に自分も死んでしまいたいという気持ちになったというのであるが、この心境は被告人の従前の夫婦関係や生育歴などの背景事情を考えあわせると、それなりに了解できるものであって決して唐突なものではない。本件犯行の態様をみても、前判示のとおり、被告人は本件家屋を早くかつ確実に炎上焼燬させる方法をとっているのであり、更に被告人は本件犯行後、自動車で現場から逸早く逃走した後、走行中自分が大事を犯したことに恐ろしくなり、派出所に立ち寄って自首しているのである。以上の事実を総合すれば、被告人は本件犯行当時是非善悪を弁別し、これに従って行動する能力につき著しく欠けることはなく、心神耗弱の状態ではなかったと認められるので、右の点に関する弁護人の主張は採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法一〇八条に該当するところ、所定刑中有期徴役刑を選択し、被告人は罪を犯したことが官に発覚する前に自首したものであるから同法四二条一項、六八条三号を適用して法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年六月に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中六〇日を右の刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して、被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

被告人の本件犯行は、妻の家出に前途を悲観した被告人が居宅を焼燬するとともに自殺しようと考え、居宅を全焼させたというものであるが、動機の遠因とも言うべき妻の家出は被告人の同女に対する暴力が原因であって妻に特段落度はなく、いわば身から出た錆というべきものであり、自殺まで思い詰めたということ自体は気の毒であるが、だからといって放火行為が許される筈はなく、深夜に自動車からガソリンを抜き取り本件家屋の各部屋に満遍なく撒布するなどその態様は極めて危険であって悪質であると言わざるをえず、借家である本件家屋を全焼し、近隣住民に多大な不安を与えるなど重大な結果を招いており、被告人が被害者に対して何ら損害の填補をしていないことをも考慮すると、被告人の刑事責任は重いと言うべきである。

しかしながら、本件家屋は現住建造物であるとは言え、妻が家出しているという状況にあったこと、本件火災により負傷者は出ていないこと、被告人は本件犯行後直ちに自首しており、改悛の情も顕著に認められること、被告人には前科前歴がないことなど被告人に有利な事情も認められるほか被告人の生立ちなどの事情をも総合勘案して自首減軽したうえ主文掲記の刑を量定した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 齋藤昭 裁判官 田中俊夫 鬼頭清貴)

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